歯磨き粉が少なくなると、チューブを追いかけるように絞り出す。
端を折り、巻き、指で押す。それでもまだ出ると、なぜか得をした気分になる。
洗面所で、早川は思わず笑った。
「永久歯磨き粉やん!」
その一本は、もう底が見えていたはずだった。
それなのに、毎朝毎晩きちんと歯を磨いているのに、なかなか終わらない。泡立ちも味も変わらない。歯ブラシは濡れ、口の中もいつも通りすっきりする。
三か月後も、まだ使えた。
半年後も、まだあった。
一年が過ぎた頃、さすがにおかしいと思い始めた。
計算が合わない。どんなに控えめに使っても、この一本がもつはずがない。それでも歯磨きは、確かに続いている。生活も、体調も、特に変わりはない。
ある夜、歯を磨きながら、ふと手を止めた。
泡の量が、多すぎる。
出した覚えより、明らかに多い。
チューブを見ても、どこにも異常はない。
その日から、歯磨き粉の量が合わなくなった。
少しだけ出そうとしても、止まらない。
必要以上に、白いものがあふれる。
ある朝、出勤前にチューブを手に取って、早川は固まった。
軽い。
振ると、中で何かが転がる音がした。
液体ではない。
空気でもない。
裏返すと、細かい折り目が無数についていた。
自分の記憶にない折り方だった。
何度も、何度も、力いっぱい絞った跡。
その瞬間、ひとつの考えが、音もなく胸に落ちた。
この歯磨き粉は、減っていないのではない。
歯を、作っている。
押しても、もう何も出なかった。
代わりに、洗面台に落ちた。
白い塊。
歯の形をしている。
早川は、ゆっくりと口を開け、鏡を見た。
歯は、ちゃんと並んでいる。
噛み合わせも、違和感はない。
ただ、どこか作り物めいていた。
歯ぐきとの境目が、妙に曖昧だった。
その夜、洗面所の明かりを消しかけて、早川はふと立ち止まった。
鏡の奥に、もう一人の自分がいる気がした。
歯のない口で、何かを言おうとしている。
声は聞こえない。
けれど、意味だけははっきりと分かった。
──ちゃんと、磨け。
──俺の分まで。
その瞬間、胸の奥が静かに冷え、同時に、少しだけ温かくなった。
早川はチューブを見た。
くしゃくしゃに折られ、もうほとんど空になっている。
これは、偶然じゃない。
魔法でも、奇跡でもない。
未来で歯を失った自分が、
過去の自分に残した、たった一つの願いだった。
「せめて、歯を失う前までは」
そう願って、生まれた歯磨き粉。
早川は、いつもより丁寧に歯を磨いた。
急がず、流さず、鏡の中の自分を見ながら。
泡を吐き出すと、なぜか胸の奥が少しだけ軽くなった。
歯磨き粉は、その夜、静かに役目を終えた。
※この歯磨き粉は回収されました。
※歯を失う理由の多くは歯周病であり、予防には毎日の歯磨きが欠かせないとされています。


